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シャンバラ祭の報告 ー南正人ー

2010年04月14日 22:00

■2/10 成田発

チェンマイ在住30年にもなる浦野(ウラさん)の家を訪ねた。
シャンバラ祭のタイ側主催者(ピック&ステファン)と僕との間に立って、あらゆる面で労を惜しまず、可能な限り動き、毎日のようにチェンマイの町とチェンダーオの会場を往復してくれた。
帰る時は毎日朝方で
「ウラさん、大丈夫?ベロベロじゃない。」と言うと、
「だいじょーぶ。ねむくなったらクルマとめてねちゃうから」と、こんな調子で通いづめだった。

ーチェンマイにあるウラさんの家ー

「ネェネェ、ナミさん、おかしいんだヨ」

と言って切り出した話をまとめると、つい最近になって前の家を急に出なければならない事情ができたため、急いで新しい家を捜しはじめたトタン、知人に紹介されたのがここで、まだ引越してきてまもない、家の奥の部屋には、ヒモでくくった本などが、置かれていた。
広い敷地内に七軒ほどのりっぱな二階建ての家々があり、木々の緑と彩やかな色とりどりのブーゲンビリアの花芯に飾られたステキな空間。

「でさァ、このイエ、二階あるでしょ、部屋数も多いし、スタッフが泊まれるじゃない。バッチシよ!」と指をパチンとならした。
なるほど、ウラさんは若いスタッフのことを考えていたのだ。
それにしてもこの引越のタイミングと家の間取り。
まず、これをピンポイントNO.1にしよう。

何かが、またたくまに解決することをピンポイント、と呼びます。見えない何か、不思議なLOVEのビーム光線が当っている気がするから。

二階のスタッフ宿泊用の部屋に行くと、もうすでに一人の若者がいた。バンダナを頭に巻かせたら、1960年代のヒッピーさながら。

「長崎から来ました。名前はターです。」

ターね、覚えやすい。


■2/11 ピック&ステファン登場

二人はタイ側の主催者。夫婦。ウラさんの二階のスタッフルームでいよいよ、あらゆることの最終決定をする時を迎えた。ところが、僕の来るのを待って、それから決めようということになっていたため、大雑把にしか話は進まなかった。スタッフ全員で会場入りする予定日は15日だが、ピックは待ちきれないようで、14日にはター一人を連れてチェンダーオへ向って行ってしまった。
現地が気になるのだろう。

その間、祭りのTシャツをつくるために、皆してゾロゾロTシャツの卸問屋へ行き、決定。絵柄はステファン、(ピックの御主人、ドイツ人、若い頃はジョン・レノンにそっくり美術の教師をしながら、何度も海外を旅し、足かけ7年の旅の末にピックさんと出会い、結婚。銀のアクセサリー制作で家計を立ててきた。子供は4人。将棋強し。今回も10番やって、イーブン。)が描いてきたものとなった。

何しろ日中はたまらなく暑いので、このTシャツの件だけで1日が終ってしまった。まだ決まらないことがいっぱい残ってるのに…。

ピックが言った。

「ナミさん。カラワン、来ない。スラチャイさん、来れない。ワタシ、困った。ワカラナイ」

えーっ?!来な~い?なんですか?それ?
じゃァ、一年前にナコンサワンに行ったことがパー!?
8時間も汽車にゆられて会いにいって、OKって言ったのに…。
僕は、どうしようかと思案橋。

そんな時、ようやくトゥックと連絡がとれた。
彼は第一回目のタイ草の根いのちの祭りを主催した人物で
「センパイ、ゲンキ?」とハグしてきた後、急に暗い顔でボソボソ話はじめた。
要するに、タイのミュージシャンに出演の話をしようにもただで出てくれとは言えなかった。というのだ。
それはそうかもしれない。
日本からのミュージシャンが自費で来ているのに、タイに住むミュージシャンにお金を払うなんて、という、トゥック個人の思いとは別に、タイの事情がある様子がなんとなく伝わってきた。

「OK。分った。とりあえず予算10万円を用意するからそのワク内でタイ側のミュージシャンを至急集めてくれ。それからカラワンの話をきっちりつめてくれ。ダメならダメでもいいから、ハッキリさせてくれ。たのんだぞ。」

とまァ、こんなあんばいだったのよ~~~~~~~~~~



■2/16 ティピ

ティピーの所有者キヨシが「僕の誕生日は2月16日だから、チェンダーオのまつり会場で、誕生日を迎えたいんだ。」と言っていたのに、15日の夜になっても、まだ来ない。
まだ南の島にいるらしい。
あきれた。アホかおまえ。

彼をほったらかして、ともかく僕らスタッフは会場入りをした。ーしかし、わずか3、4日の間にどんどん集まってきた。パイという町に住んでいる日本人や、その仲間の旅人やらが20人位は応援にかけ参じてくれたのには、おどろいた。嬉しかった。何故なら日本で応募したスタッフは16人しかいなかったのだから。
これは驚きのピンポイントNO.2でしょう?



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここから先はまつり会場ストーリーとなります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

チェンダーオ市100周年を迎えての一大セレモニーを画策していた市長からのお呼びがかかり、ピック、ステファン、私などが会議場の壇上の市長の両側に坐らされ、神妙な面持ちの約70人の関係者と向きあった。

山岳少数民族(ヒル・トライブ)の種族が最も多いといわれているチェンダーオ市は、このなかから5部族を選び出し、本来なら彼らの住居空間、つまり村まで行かなければ見れない部族の歌や踊りを、一挙にお見せいたしましょう、というかって前例のないことを考えていた。
すごそう。

ところが、わかってきた。彼らはその祭りを僕らの会場でやることに決定してたのだと。

エーーーッ、ハツミミ!

さァ、それから、またタイヘーン!が始まった。

まずピックさんの怒りはタイヘンなもので、さすがにその場では押し黙っていたが、ティピへもどった時は、なだめるのに時間がかかった。
「なにも、アタシたちのステージの場所を勝手に使うなんて、ヒドーイ。」全長80メートルもあるバカでかいステージを作るのだそうだ。
その話がハッキリした時点で、僕は、僕らのステージを移すことにした。仕方ない。
ところが、移すことを決めたあと、その新しい場所を眺めてみたら、チェンダオ山と僕らの間にはさえぎるものは何ひとつなく、

「いいじゃないか、ひょっとしたら、こっちが正解だったかもよ~~」

と誰もがうなずき、ピックさん以外、誰も何も気にしなくなった。
災い転じて福となる。
これもピンポイントNO.3かな?

祭り準備期間中に、重機が入ってきていきなり穴を掘り始めた。川の近くとあって、大きな岩がゴロゴロと堀り出された。丸三日間かけて、巨大な穴をつくって帰って行った。底の方には、少しずつ水が出てきた。
穴の周辺は岩と石と土だらけになってしまった。
やがては井戸にすると言うが…。



■土の家づくり

ワークショップの中の1つ、土の家造り。土というよりは泥かな。まずは泥をバケツではこび、木わくの型につめた後、木わくをはずし片面2日ほど天日干しを、さらに裏返して2、3日で、20x30センチ程の立派な土のレンガが出来上がるのだが、まずは肝心の土。
指導をしてくれた土の家づくりのベテラン、タイ人のジョンさんは、レンガ用の土は、粘り気が必要だから、特別に土は買うことになるだろうと言いながら、井戸掘り、というか、大きな穴堀りで、かき出された山のようにある処分しなければならない土を手にとり、水に湿らしてみて、

「これなら使えるかもしれない」

と、おっしゃった。そばにアングリと口を開いたように横たわる大穴。実はこれは"井戸"掘りの途中なのだが、会場がNPO法人だということで、会場をお借りする15万円の経費を、お金ではなく、井戸を1つ掘って寄贈するという形に話がなっていた。
大量の粘土を買わずに、穴掘りでかき出された土がレンガづくりに使えたのだ。
これも、またピンポイントNO.4ですね。



■スタッフ

日本からは16人の男が参加。足りるかな?少し心配だったが、そんな不安はアッというまに吹き飛んだ。チェンマイ、パイに住む日本人の若者や旅人くんたちが合流してきて、50人位になった。
名前を覚えるために、胸やら足やら帽子やらに自分の名札をつけた。初めまして、の状態だった。
みんなピースフルなハッパ色した若者たちばっかりで、とても嬉しく、心強かった。

「今日はいちにちで100コのレンガを作るのよ。100コよ。みんなガンバッテ」ピックさんの指示の号令とともに、まずは石と土をふるいにかけ、さらに土を細かくくだき、水をかけ、素足で踏み、粘土状になった泥をバケツではこんで土レンガ作り開始。

カンカン照りの中、モクモクと働き汗びっしょり。
全部で300コの土レンガを作り、用意した。やがて祭りがはじまると、ジョンさんがやってきて、組み方を指導。2日かかって立派な土の家が出来上がった。(屋根は骨組みまで作った。)
泥だらけになった連中は、もちろん、近くの温泉場へ直行。
きれい、さっぱり、ごくろーさん。
でも、楽しかったね。



■ティピをはる

ティピ5はり分の竹、全部で何本必要?100本、200本?会場が国立公園内にあるため、町で売ってるものを買ってこなくてはならないことが、分った。こりゃまたメンドーな、と思っていたら、丁度、小川をはさんだ向う側の竹の所有者が
「だったら、うちの竹、切ったらええ」と言ってくれたおかげで、大助かり。しかもティピ張り経験者ゆーじんが
「こんなに長さも、太さも揃った竹は今までにない。明らかにサイコーの竹だった」と言っていた。

この竹の話もピンポイントに数えたい。
ピンポイントNO.5

タイ人にとって実物のティピを目にするのは、これが初めてとあって、興味津々。コアというタイ人は一張りをキヨシから買ってしまい、来年の祭りには、自作のティピを提供したいと嬉しそうに語っていた。
期待できそうだ。ありがたい。
だって、5張りのティピの輸送料は片道でも7、8万円はかかってしまうのだから。

会場のわきを巾3メートルほどの浅川が流れ、川べりにはかたまって生えるタイ独特の竹、木々が並び、ちょっとした陽陰げが用意されていた。
テント、ティピは川に沿って並び、まるでタニシ(タイ語で"ホイ")のようだった。一句、みんなで歌よみをした。

ホイホイとチェンダオ山へ来てみれば
ナントカ、カントカ、シャンバラ、ボム!
(あべちゃんゴメン、下の句、忘れちゃいました。)

作業の合間、小休止には、みなこの木陰にある川べりのテーブル等に集まって、のんびりと煙をくゆらせておりました。目の前の川の向うには、水牛も泥の中でのんびり。

ティピを立て始めの頃の話。
三丁目のティピの中で誰かが、暗くなってきたので、火をたきはじめた。しばらくしてピックさんが入ってきて、ちょっと険しい顔になり皆に言った。

「竹は確かに良く燃えるわよ。でも、灰がいっぱい出るから、こうゆう所にむかないのよ。それと、この木、これどこから持ってきたの?これはチークの木なのよ。チーク材はとっても貴重なのよ。高いのよ、タイでは、木材が。チークを燃やすなんて、信じられないわ。いいこと、明日からは道の向うの林の中へ入って、下に落ちている倒木をひろってきて、焚木にしてちょうだいね。いいこと、わかった?」

「はい!わかりました。」

タイの事情を、またひとつ知ることになった。



■キッチン

会場はキャンプ場なので小さな台所があったが、コンロが三つしかなく作れる分量に限りがあり、苦労していた。最初の頃は何とかやっていたが、一気に人数が増えてからは、大変な状態になって、なかには食べれない者も出てきた。スタッフが増えたのは有難かったが、食費がものすごく膨らんだ。

次回は、もう少しキッチンと対策を考えなければいけない。

今回は、たまたま料理の腕に自信のある阿部ちゃん、ミッキー達がいてくれたからよかったが、来年は、もっとコックが必要だと痛感した。だって、連中は丸半ヶ月づーーっとキッチンづめだったのだから…。
交替要員が必要だ。



■タイ側のミュージシャン

浦さんを通じて、トゥックから連絡が来た。カラワンは来ることになったという。
あー、よかった。

ダメかと思ってたよ。でもそれって当然の話でしょう。タイ側の出演バンドは?ときくと、まだ不明で結局は、もうひとつのグループが来ただけで、タイのミュージシャンは一体、どうしてしまったのだろうか…。
お陰で日本からのMusician達は、ゆったり、たっぷりやることが出来てよかったが、来年は、もっとタイのミュージシャンに参加してもらわなければダメだ。
この点は大反省。



■沖縄エイサー

下川悠治さん(旅の本を出している作家)の口ききで、沖縄のエイサーが総勢30人近くやってきてくれた。全員が沖縄からではなく、エイサーを勉強している同好会の人が多かったが、例の三線が山岳民族の音楽に使うピンにそっくりだったこともあって、ヒル・トライブの人達と沖縄は兄弟姉妹のように親近感を深め、ぼくらや、タイの人達の頭上を越えて、百年の知己に会ったような、すごいワンネスになってしまったような印象だった。
また、来年も参加してくれるといいのだが…。

信じられない光景がいくつも残った。



■P.A

チェンマイの町で揃える予定のP.A(音響)が祭り3日前になっても来ない。理由はきかなかったがトゥックはダメだった。結局、僕はステファンの車に乗り、チェンダオの町にあるP.A屋に当たりをつけにでかたが、2軒ともスケジュールがつまっていてダメ。町はずれの3軒目で、ようやく見つけたのが今回のP.A。
照明とステージ組立、オペレーターまで全部まとめて10万円でテをうった。

「友だちたちから借りたりさ、大学の音楽クラブから借りたりすれば、お金はかからないと思うわよ。」

と言ってた頃が夢のように懐かしくなったが、ここで懐かしがってはいけない。
来年は夢を現実化するんだ!
アンプを確実に借りるんだ。
行動してP.A代を下げるぞーーー!

やっぱり、ひとまかせはダメだ。まず自分で動け。

<タカノリ奮闘記>
もともとP.Aオペレーター担当は、北海道のヒロさんになっていたのだが、1月に連絡が入って、持病が出て、それが長引きそうなので迷惑かけないようにと、断りのメッセージが入った。
そ、そうか。じ、じゃあ…
そうだ!タカノリにたのもう!
と胸の中で手をうった。

松井タカノリ君はダダチャイルドのろくろう君の弟で彼も歌い、ギターを弾きます。が、彼は福島の獏原人村まつりのP.Aオペレーターの助手を何年もやってきているのを知っていたので、さっそくたのみこんでみると、明るい笑顔と唐津弁でやれるだけやってみますと答えてくれた。

彼は地元のタイ語しかしゃべれないP.Aオペレーターと唐津弁で最後まで会話していた。
私は見ていた。
ちゃんと通じていた。

すごい!タカノリ。

すぐにうた仲間のシスが応援に来てくれた。
ゴクローさんでした。
サンキューベリーマッチ。



■染めのワークショップ

タイ側からはベテランのピリンさんたち、日本側からはイサコさんが中心になって楽しい染めのワークショップが行われた。準備にいろいろと必要なものがあるためイサコさんは心細げに心配ばかりしていたが、ピリンさんに会ったとたん、「ワーッ全部、揃ってるー」と悩み解消。これもピンポイントNOに入れてもいいと思います。



■受付け物語

熱帯森林保護団体(代表、南研子)のスタッフであるパイングリちゃんは、この祭りに大いに乗り気で、日本からの参加者一人一人に渡す"首かけちっちゃん"を仲間たちと、200ケ以上も作って持ってきてくれた。
ひとつ、ひとつ、全部手作りだ。
ありがとう、サンキュー。

<受付物語>
みなさま、楽しいお祭りをありがとうございました。
私、ぱいんぐりと申します。
2008年ころに、なみさんが「タイで2010年に祭りをやる!」の一言から始まり、こんな素敵なお祭りに私も参加させていただいてとても良い経験を共有させていただきました。
日本でチラシや、ウェブサイトや、前売りチケットや、なみさんと浦さんからだけの情報で、見えないまま、たった一人の事務局で、二次元の世界を中心にお手伝いをさせていただいていました。それなりに大変で、着実に何かが形になっていくことを感じる傍ら、タイに着いてから、現場の三次元の価値を前に、私が日本でしてきた事前準備の二次元の価値とは足元にも及ばないと思いました。現地に遅ればせながら入って、たくさんのスタッフの方々が、充実した期間を経て祭りを迎えるのを目の当たりにし、私はお客さんの一人になり、みなさんにまかせっきりで祭りを楽しませていただきました。ありがとう。

受付の仲間はいつも私を支えてくれて、お金を頂くという、なかなかデリケートな現場を忘れられない充実感で満たしてくれました。ありがとう。
あなたたちたまらんです。
お客さんで来たのに手伝ってくれたみんなと、ケンケンと虹輪くんもありがとう。
お祭りとは参加する人もスタッフもできることをできる人がやって、どんどん形になり、大きな乗り物のようで、とても温かくて、良いものですね。

想いから形になるということがよくわかりました。そして、近くにいすぎたのですが、なみさんのすごさも改めて知りました。

またみなさまの笑顔にお会いできることを楽しみにしております。

ーぱいんぐり(白石絢子)
では、なみさんにまたバトンを戻します。




■神戸のパパ

本当にご苦労さまでした。アジアの旅にくわしいパパは、バンコクーチェンマイ間のバス発着などアクセスの詳細を調べ上げてくれていた。
やる気マンマンで乗り込んで来てくれたが、祭りがスタートする前に自転車でこけて、ヒザを割ってしまった。

普通だったら、何もしなくなっても当然な状態になってしまったのに、ギブスで固定した足のまま松葉杖で、さらに張り切って、終にはステージの司会までやってくれた。
パパ、よかったよ。サイコーの司会だったよ。
来年もよろしくたのんますわ。
パパの喋りは、間がイイ。



■大鹿のアキ

「大鹿のアキ」が来てくれ、心強かった。さすがは祭りのベテラン。若者達と一緒になって竹仕事に精を出し、合間をぬってビデヲをまわし、写真をとってくれていた。
アキもこの会場がとても気に入った様子で来年はスマ子さん(奥さん)を一緒に連れて来たいと言っていた。

パパの松葉杖の調整を
「こういうことは、ワタシにまかせなさい」と手伝っていた。

いとほほえまし。



■2/25~27

この三日間はタイ側からのミュージシャンがいなかったので、ステージの上は、殆ど日本人だったが、外人さん(白人)のミュージシャンの飛び入りもあり、ゆったり、のんびりとした、ぜいたくな時間を分かちあえた。



■2/28

28日はチェンダオ市主催のヒル・トライブ・ショー。
同じ日の午后には、サッカー大会も用意され祭りチーム対チェンダオ市長組との対決は大いに盛り上がり、試合は4-4で引き分け。勝ってもいけない、負けてもいけない、というムズカシイ局面を、見事にイーブンに持ち込んだのだった。
タカが2点、ジーコが1点、もう一人は…。



■いろいろ

市をあげての一大イベントとあって、トラブルが起きないようにと、陽も暮れかかってきた頃、ケーサツの人達が何人もやってきた。物めずらしそうにイロイロ眺めながら、会場を歩き始めた。ステージ上ではモリヤンが歌っていた。すると、ビール片手に浦さんがステージのまん前まで行って、歌っている最中のモリヤンに下から大声で言ったのだ。

「モリヤン!今、ポリスが来てるから、みんなに今はハッパは吸わないようにって、アドリブで言ってやって!」だって。まァホントに。
「エ~ッ!?なんすか?ハァー、ハァ了解。」
と、モリヤンはいきなりアドリブでそのことを歌いだした。
日本人以外には日本語が通じないので、全然問題はないのだが。
もう漫画。
僕は大笑いした。

やがて、ポリス達が石のように固まる瞬間を迎えた。ステージの上では獏原人村のマサイの娘さん二人、プラス1の三人で色っぽいベリーダンスが始まったのだ。

ポリス達を観察してみた。ビール片手に彼らは、呑もうともせず、微動だにせず、喰い入るように青筋たてていた。
「ゴクッ」と生唾をのみ込む音がきこえてきそうな雰囲気だ。やがて、魂を抜かれたように、やに下った面さげ、ポリス達はお互いにニヤニヤ。

「明日も、この踊りをやるんだろう。ウータノシミ。」と言っていた。

彼らは、何の為に来たのか、もう、すっかり忘れ果て、女の子と肩組んで記念写真をとったり、誰か、ゆうちゃんはお尻触られたで。とか、やっぱり、ベリーダンスは刺激が強かったようだ。よし、来年は毎晩やろう。少なくともその間は、あっちの方は、大丈夫。

たくさんの反省点、問題点が残った。一番の問題はタイの人達への情報が僕が思っていたよりも少なかったことだ。幸い、来年の祭りのために、タイ人のアーチスト達が積極的に参加したいと申し出てきてくれた事で、来年こそは、きっと、もっとバランスのとれたいい祭りになりそうだ。

チェンマイ市にあるトアくんのアトリエへ行き、改めて次回のシャンバラ祭りについて語り合った。奥さんのヨーコさん(日本人)の説明によると、彼は10年程前に、病気の父親と二人でバンコクから引っ越してきたのだが、トア君は絵筆一本で来たという。その後、似顔絵描きなどで、なんとか生活をし、やがて彼の絵がコンテストで入賞し、ようやく今の生活ができるまでこぎつけた、えらく苦労をしてきた人だと知った。

三階から一歩も外へ出ようとしなかった父親が、今年になって、やっと一階まで降りてきて「こんにちは」と人並の口がきけるようになったことを”奇蹟”と呼んでいた。

そのトア君は、

「来年の祭りに是非、参加させてほしい。あんなにワンダフルなイベントは今までタイでは見た事もない。もし、来年もやるのであれば、是非、僕にもスタッフとして参加させて欲しい。大勢の仲間達にも積極的にはたらきかける。祭りにぴったりのアーチストもミュージシャンも、僕、いっぱい知っている。」

と目を輝かせた。

喋りながら彼の手に握られた鉛筆はひとりでに、ステージのデザインを描いていた。

「ステージのイメージがあるんです。是非、まあるいステージを作ってみたい。」話の終る頃までには、いくつもの試案作が紙面を埋めていた。

「よし、分った。是非、一緒にやりましょう。」
と答え、僕は5万円を手渡した。

「来年の準備金です。自由に使ってください。なにかと必要でしょう。」

「じゃあ、私がお金の係をちゃんとやります。」
と僕と同じ3月3日生れのヨーコさん。

彼らはタイ人向けのWEBサイトをすぐにでも立ち上げると言っていた。祭り期間を通して流れていたピースフルな空気は、実に、実に心地良く、ロケーションの素晴らしさも申し分なく、僕は、もう一度、同じ場所で、シャンバラ祭をやろうと決心した。

参加できなかった多くの人にチャンスをあげたい。

そしてシャンバラ組の面々に是非、また会いたい!!

こうして約半月にわたる祭りが幕を降ろした。

寄付金をカンパしてくれた皆々様の陰徳は間違いなく天の倉に記録され、今後の皆様の人生に必ずや素晴らしい幸をもたらしてくれることでしょう。

みんな、みんな、ありがとう。

来年も、また、一緒にやりましょう!

ボム!シャンバラ!


ーおわりー




2010年4月
南正人



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